<共和国>はグローバル化を超えられるか
J=P・シュヴェヌマン 樋口陽一 三浦信孝『<共和国>はグローバル化を超えられるか』(平凡社新書)を読みました。
シュヴェヌマン氏は、フランス共和国の閣僚歴任者だそうな。その氏と樋口陽一さん(憲法学者)の公開討論「第五共和制五〇年と<共和国>のゆくえ」──2008年12月に日仏文化会館(恵比寿)で催された──の載録を中心に、二氏と三浦信孝さん(司会を努めたフランス研究者)の事前後の文章を掲載したものです。
大きな新発見は無かったけど──現在フランスが第五共和制とは知らなかったが(笑)──、もろもろの再認識・再確認などがありました。
●「日本国」は立憲君主制ではない
戦後の天皇は象徴であり、(権能の如何を問わず)正式の元首ではない。よって、立憲君主制ではないと。
●「市民」とは何か
フランス革命を起源として定義すると、「市民とは、感受性を備え、さまざまな欲望や欲求をもち、自然権を享受する個人であるだけでなく、一般意思すなわち法の形成に参加する義務を意識した理性的個人である。」(P.74)なんだそうな。
●大臣というのは、口を閉ざすものだ
シュヴェヌマン氏いわく、「大臣というのは、口を閉ざすものだ。口を開きたい時には辞任する」(P.90)だそう。閣内不一致の意見があるならば、辞職してから言うべきだと。
それで三回も、閣僚辞任したんだそうな。
●初等教育の最重視
「他人の助けを借りないで自分の頭で考え自分で判断できる能力を子供の中に植えつける」(P.95)ことだそう。
ゆえに小学校教師は、「人為的に作成する人」の意で呼ばれるそうな。
●株主/市場主権のグローバル経済
シュヴェヌマン氏いわく、「金融市場は人類の歴史の地平にはなりえない」(P.133)。
●「共和国」とは何か
「あらゆる教条(ドグマ)の支配から自由な共通の空間における市民間の討議のこと」(P.211)だそうな。
●ただ乗り
より日本に即した(?)樋口さんの率直な懸念──「自由な社会はただ乗りを許容する。」(P.211)。イエーリングの言を借り、千人の社会で百人・五百人がただ乗りしたら、乗るべき本体が無くなってしまうのではないかと。
「市民」が大半を占めない「共和国」たりえない民主的な国は、ただ乗りを常態として認められないのではないかと……。(だから日本は、生活保護要件などが厳しい……訳ではなかろうが)
日本が「共和国」になるのは、難しそうだねぇ。他者の主張を理解して、議論できないんだから……。
目に見える(本来は)知的エリートの場──国会などが「共和国」たりえていれば、まだいいんですけど。「前提」と「演繹過程」を弁別し、(情緒ではなく)哲学をもって理解/主張できないんだから。
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